江島杉山神社 墨田区

森下の駅からほど近い神社。

この神社の由緒はとても面白いので、鍼治療好きな方はご一読を。

江島は、湘南の江ノ島のことで、杉山は江戸時代の鍼灸師で、将軍綱吉の御殿医となり、盲人の最高位・検校まで上り詰めた杉山和一のことである。

鍼治療は鍼管(しんかん)と言われる、鍼よりちょっと長い管の中に細い鍼を入れてツボに当て、鍼管からはみ出した鍼の先をちょんちょんと叩くことで、鍼を刺すのはご存じだろう。

この方法は

「鍼管法(しんかんほう)」

といい、実は日本のオリジナルで、発明者も分かっている。

もちろん鍼管法は鍼の本場、中国にはない。

中国では、鍼をそのまま患部に刺す。この場合、鍼の強度が必要なので、鍼は太くならざるを得ず、細くてもまち針のちょと細い程度の鍼であるから、色々な痛み緩和テクニックがあるが、かなり痛い。

それに対し、日本の鍼は髪の毛程度のもので、一般的に針というと想像してしまう裁縫に使う針とはほど遠いものだ。

極細故に痛みは少ないが、鍼自体に強度がないので、刺すのが難しい。

この難点を克服したのが鍼管を使用する「鍼管法」であり、この鍼管法を開発して、一躍鍼灸界のトップスターに躍り出たのが杉山和一なのである。

彼は大人になってから失明、当時の失明者の職業であった鍼灸師になるが、全く芽が出なかった。

そこで、一念発起して江ノ島の洞窟に籠もり断食、神霊によるインスピレーションを得ようとした。

行があけ、特にこれといった特異現象は起きなかったが、江ノ島から出ようとした時に、石につまずいて、和一は思いっきり転倒した。

痛たた、と立ち上がろうとすると、いつの間にか手には丸まった落ち葉が握られていた。

そして、その中には偶々松葉が通っていたのである。

これが鍼管法発明の瞬間である。

細い鍼を少ない痛みで的確にツボに打ち込むこの技の開発により、和一は遂に時の将軍の御殿医となり、検校の位を与えられるまでになった。

ある日綱吉に

「世話になっているから欲しいものがあったら何でもやる。言ってみろ」

と言われた和一は「もう欲しいものはないが、貰えるなら目が欲しい」と言った。

国技館や錦糸町のあたりには、今でも三ツ目通りや四ツ目通りがあるが、これは森下付近にあった川にかけられた橋の名前から来ており、昔は一ツ目もあった。

目が欲しいという和一に綱吉は一ツ目の広大な土地を与え、和一はここに江ノ島の神様を勧請、洞窟も作ったのである。

これが江島神社だ。

目が欲しいという盲目の功労者に対して、一つ目の土地をあげるなんて、今だとちょっと炎上しそうな案件だが、ここら辺は言葉遊びに長けていた江戸時代ならではの感覚だろう。

神社はかなり広く、当時は有名な観光地でもあったらしい。

和一が亡くなったあと、和一も鍼灸治療の神となり、江ノ島の神と合祀され、江島杉山神社となり、その後江戸の終わりまで参拝者で賑わったという。

和一が作った江ノ島の洞窟のレプリカは数度の補強を経て健在である。

御利益に

「鍼灸あんま術上達」

という世にも珍しい項目があるので、整体関係者は是非行ってもらいたい。

ちなみに、江ノ島には和一がけつまずいたとされる石が残っている。

入り口の商店街を抜けると階段があり、左に行くとエスカー、右に行くと旧参道だが、これを右に行って階段を上がるとこの石がある。

今では「福石」と名付けられ、説明看板もあるが、誰も見向きもしないし、読んでもよく分からないだろう。

そして、和一の墓は、この福石からちょっと下ったところにある。

江ノ島の本当に入り口にあり、江ノ島に行ったことがある人なら、この福石と和一の墓の前を百%通っている筈だ。

今度行ったらちょっと気にしてみてもらいたいと思う。

さて、江戸の江島杉山神社にはもう一つ面白いものがある。

境内にちゃんと鍼灸院があるのだ。和一の精神を受け継ぐこの鍼灸院は、盲人中心となって、江戸古典鍼灸を今に伝えている。

誰でも予約できるので、ここで鍼を打って、帰りにみの家で一杯やるコースなどを是非楽しんでもらいたい。

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