体は繋がっているという話 2
私が今整体をしているのは、
教員の時に体を壊し、その時に大病院では全く治らず、というか
相手にされず、町の整体で簡単に治ってしまった経験が元になっています。
教員が体を壊すのはニュースなどでよく聞くと思いますが、
やりがいはあるけれど、本当に体に悪い仕事です(笑)
しかし、私が明確に体を痛めたのは更に前の、大学受験の時だという自覚が明確にあります。
当時私は机で勉強するのが嫌いで、ずーっと炬燵で勉強していました。
何故か机と椅子が嫌いで、床に座って勉強するのが好きだったのです。
浪人もしまして、この間ほぼ自宅浪人状態だったので、1日10時間くらい座りっぱなしで勉強していました。
田舎でしたので、大学=国立大学だったので、私立は全く眼中になく、旧帝国大学クラスを目指して多教科の勉強を精力的にこなしていました。
浪人があまりに苦しかった私は、
私立大学の合格が出た時点で喜んで、早々に手続きしてしまい、
苦労して勝ち取った旧帝大の合格書類は封もあけないでそのまま捨ててしまいました!
苦労しすぎて正常な思考回路が失われていたのだと思いますが、
この時の勉強で明らかに腰を痛め、長く苦しむことになります。
ついでに言うと、早稲田に行ったのも失敗だったかもしれません(笑)
当時は自分の姿勢や、足腰の痛みなどにも無頓着でした。
大学時代は怠惰に過ごしていましたので、腰痛で動けなくなることはありませんでしたが、
教員になってからの多忙とストレスは何度も腰に来て、
朝出勤時に靴を履こうと前屈みになった瞬間に全く動けなくなり、出勤はおろか、お休みの電話をかけるだけで30分くらいかかったこともあります。
これは全て整体で治し、今はもう20年くらいは腰は何ともありません。
腰を治すと同時に体調も非常によくなり、腰痛は単独で発生するのではなく実は体調不良も伴うのだな…と深く実感したりもしました。
その治療過程でも特に印象的だった出来事を書きます。
担任も持ってバリバリと教員の仕事をしていた時です。
その時も腰痛が出て困っていました。このところずっと痛いなぁ。
もうちょっとしたらまた集中的に整体に行かなければ…
そんな風に考えながら日々を過ごしていたところ、
休みの日に温泉に行く機会がありました。
温泉はやはり温まり方が家庭の風呂とは全然違いますよね。
「あー、よかったなー。腰痛も少しいいようだ」
脱衣所の横に洗面台。その奥は大きな壁一面の鏡です。
「うん、よかった。いや-、効いたなぁ」
とか適当なことを呟きながら。鏡の前にタオル持っただけで
腰に手を当てて立ち、何するでなく暑さと、温泉の余韻を感じて立っていました。
そこからちょっと上を向いて軽く首を振るような動作をしました。
ことさらに準備体操のように首を回したのではなく無意識に揺らがせただけです。
施術所では、施術が終わった後に皆さんもよくやっています。
マッサージの後とか、朝起きたとき、立ち上がって「あー」とか「いや-」とか言いながらうよくやる仕草です。
その瞬間、私の首の骨は「ボキッ!」と大きな音を立てて折れました。
頭の中に骨が「バキッ!」と鳴った音が共鳴して非常に大きく感じました。
また同時に、全身に電気が走ったようになり、それはつま先まで一瞬に広がり、
私はまさに首中心にむち打たれたようになり、「うっ!」と低く唸ったなり、
氷のように固まってしまいました。
瞬間的にフリーズ。
ずーん。
暫く全身の痺れを感じました。
「く、首が折れた…」
このくらいの動作で折れる訳はないとは頭の隅で思ってはいるものの、
その衝撃の強さは大変なもので、痛さと恐怖で私は全く動けなくなりました。
でも、先ほども書いたように、ほんのちょっとした動きで発生したので、
側に居た他の人には動きを止めて、風呂の余韻をしみじみと味わっているくらいにしか見えなかったと思います。
「やばい。半身不随かも」
そう思いながら、動かせる指先を少し、首に響かない程度動かしてみました。
何とか動きます。
でも、首はここから少しでも動くと怖いので、指から少しずつ、少しずつ動かしていきます。
指が動くということは、どうやら首は折れていない…
安心はしましたが、首は怖くて動かせません。
ちょっと右上を向いたような状態のまま、
指、肘、足首、と徐々に動かし、首を動かせたのは体感的には10分後くらいです(実際にはもっと短かったとは思いますが。3分後くらいでしょうか)。
首をゆっくり動かして、正面を向きましたが、痛くありませんでした。
「よかったー」
と心底安心しながら、それでもなおビクビクしながら体をゆっくりと色々動かしてみました。
異常はないようです。
それにしてもあの衝撃はなんだったんでしょう。
ほんの数センチ首を振っただけだのに!
今でも時々、あの衝撃を再現しようと、首を色々動かしてみたりしますが、
普通に突っ張ったりすることはありますが、全く再現できません。
その後、恐る恐る服を着始めた私は、
ある異変に気付きました。
勘の良い方ならもうお気づきかもしれませんが、
そうです。
腰痛が綺麗さっぱり消えていたのです。
この後、私は腰痛に悩まされていません。
腰痛を卒業したのです。
首に暫く残っていた「衝撃の余韻」が消えると、体は益々調子よくなりました。
この驚きを伝えたいと色々な人に話しましたが、不思議だね~
と言うばかり。
当時診てもらっていた医者にも言いましたが
「よかったですね。不思議ですね」
だけです。
このような感じで腰痛が治ったり、長年煩っていた病気が全く考えていなかった出来事により、
一瞬にして消えてしまうことは時々あるでしょう。
しかし、我々現代人は西洋医学をあまりにも信じているため、
薬や手術で「順当に」治ったもの以外は、認めつつも
「不思議なこと」「奇跡」「よく分からないけどとにかく良かったね」
などと言うだけで、深追いはしません。
この思考の停止感は凄いです。
この当時、私はまだ整体を全くやっていませんでしたが、
このときの驚きが今でも施術へのモチベーションのベースになっています。
そして、一方で、実際にこのようなことが起きているのに、
全く研究しようとしない世の中の態度にも驚きました。
そんなに科学って発達しているのか?
説明できないもの=オカルト=おかしい
と決めつけることは多いですが、今の科学で説明できるもの以外は、
全て切り捨ててもいいくらい科学は進んでいるのでしょうか?
そんなことは全くないはずです。
相対的には100年、200年前より、
我々は多くのことを知り、制御することが出来るようになりましたが、
大いなる地球や天体、生命の不思議に比べたら、爪の先ほどの、本当に目先の現象しか分かっていないのではないかと私は思います。
こんな小さな知識フィールドの中で全てを知り得たと勘違いし、
少量の知識をああでもない、こうでもないとひっくり返したり、組み合わせたりしているのだけなのです。
こんな身近な、腰痛が首で治るという「事実」を「たまたま起こった奇跡」
扱いして、相変わらず大して効かない薬や電気治療ばっかり続けていていいのだろうか?
誰もやらないなら、とりあえず自分が、無力でもいいからやってみよう。
沢山の人の役に立つはずだ。
こう思ったのが原点です。
そこから自分で習いに行ったり、研究を始めて、
実験的に集めていた患者さんが徐々に増え、
10年かけて徐々に教員の仕事の割合と、
整体師の仕事の割合が逆転していったのです。
今回の整体師のとしての原点に近いお話から、体は繋がっているのだ、ということを少しでも実感して頂けたらと思います。
教員の時に体を壊し、その時に大病院では全く治らず、というか
相手にされず、町の整体で簡単に治ってしまった経験が元になっています。
教員が体を壊すのはニュースなどでよく聞くと思いますが、
やりがいはあるけれど、本当に体に悪い仕事です(笑)
しかし、私が明確に体を痛めたのは更に前の、大学受験の時だという自覚が明確にあります。
当時私は机で勉強するのが嫌いで、ずーっと炬燵で勉強していました。
何故か机と椅子が嫌いで、床に座って勉強するのが好きだったのです。
浪人もしまして、この間ほぼ自宅浪人状態だったので、1日10時間くらい座りっぱなしで勉強していました。
田舎でしたので、大学=国立大学だったので、私立は全く眼中になく、旧帝国大学クラスを目指して多教科の勉強を精力的にこなしていました。
浪人があまりに苦しかった私は、
私立大学の合格が出た時点で喜んで、早々に手続きしてしまい、
苦労して勝ち取った旧帝大の合格書類は封もあけないでそのまま捨ててしまいました!
苦労しすぎて正常な思考回路が失われていたのだと思いますが、
この時の勉強で明らかに腰を痛め、長く苦しむことになります。
ついでに言うと、早稲田に行ったのも失敗だったかもしれません(笑)
当時は自分の姿勢や、足腰の痛みなどにも無頓着でした。
大学時代は怠惰に過ごしていましたので、腰痛で動けなくなることはありませんでしたが、
教員になってからの多忙とストレスは何度も腰に来て、
朝出勤時に靴を履こうと前屈みになった瞬間に全く動けなくなり、出勤はおろか、お休みの電話をかけるだけで30分くらいかかったこともあります。
これは全て整体で治し、今はもう20年くらいは腰は何ともありません。
腰を治すと同時に体調も非常によくなり、腰痛は単独で発生するのではなく実は体調不良も伴うのだな…と深く実感したりもしました。
その治療過程でも特に印象的だった出来事を書きます。
担任も持ってバリバリと教員の仕事をしていた時です。
その時も腰痛が出て困っていました。このところずっと痛いなぁ。
もうちょっとしたらまた集中的に整体に行かなければ…
そんな風に考えながら日々を過ごしていたところ、
休みの日に温泉に行く機会がありました。
温泉はやはり温まり方が家庭の風呂とは全然違いますよね。
「あー、よかったなー。腰痛も少しいいようだ」
脱衣所の横に洗面台。その奥は大きな壁一面の鏡です。
「うん、よかった。いや-、効いたなぁ」
とか適当なことを呟きながら。鏡の前にタオル持っただけで
腰に手を当てて立ち、何するでなく暑さと、温泉の余韻を感じて立っていました。
そこからちょっと上を向いて軽く首を振るような動作をしました。
ことさらに準備体操のように首を回したのではなく無意識に揺らがせただけです。
施術所では、施術が終わった後に皆さんもよくやっています。
マッサージの後とか、朝起きたとき、立ち上がって「あー」とか「いや-」とか言いながらうよくやる仕草です。
その瞬間、私の首の骨は「ボキッ!」と大きな音を立てて折れました。
頭の中に骨が「バキッ!」と鳴った音が共鳴して非常に大きく感じました。
また同時に、全身に電気が走ったようになり、それはつま先まで一瞬に広がり、
私はまさに首中心にむち打たれたようになり、「うっ!」と低く唸ったなり、
氷のように固まってしまいました。
瞬間的にフリーズ。
ずーん。
暫く全身の痺れを感じました。
「く、首が折れた…」
このくらいの動作で折れる訳はないとは頭の隅で思ってはいるものの、
その衝撃の強さは大変なもので、痛さと恐怖で私は全く動けなくなりました。
でも、先ほども書いたように、ほんのちょっとした動きで発生したので、
側に居た他の人には動きを止めて、風呂の余韻をしみじみと味わっているくらいにしか見えなかったと思います。
「やばい。半身不随かも」
そう思いながら、動かせる指先を少し、首に響かない程度動かしてみました。
何とか動きます。
でも、首はここから少しでも動くと怖いので、指から少しずつ、少しずつ動かしていきます。
指が動くということは、どうやら首は折れていない…
安心はしましたが、首は怖くて動かせません。
ちょっと右上を向いたような状態のまま、
指、肘、足首、と徐々に動かし、首を動かせたのは体感的には10分後くらいです(実際にはもっと短かったとは思いますが。3分後くらいでしょうか)。
首をゆっくり動かして、正面を向きましたが、痛くありませんでした。
「よかったー」
と心底安心しながら、それでもなおビクビクしながら体をゆっくりと色々動かしてみました。
異常はないようです。
それにしてもあの衝撃はなんだったんでしょう。
ほんの数センチ首を振っただけだのに!
今でも時々、あの衝撃を再現しようと、首を色々動かしてみたりしますが、
普通に突っ張ったりすることはありますが、全く再現できません。
その後、恐る恐る服を着始めた私は、
ある異変に気付きました。
勘の良い方ならもうお気づきかもしれませんが、
そうです。
腰痛が綺麗さっぱり消えていたのです。
この後、私は腰痛に悩まされていません。
腰痛を卒業したのです。
首に暫く残っていた「衝撃の余韻」が消えると、体は益々調子よくなりました。
この驚きを伝えたいと色々な人に話しましたが、不思議だね~
と言うばかり。
当時診てもらっていた医者にも言いましたが
「よかったですね。不思議ですね」
だけです。
このような感じで腰痛が治ったり、長年煩っていた病気が全く考えていなかった出来事により、
一瞬にして消えてしまうことは時々あるでしょう。
しかし、我々現代人は西洋医学をあまりにも信じているため、
薬や手術で「順当に」治ったもの以外は、認めつつも
「不思議なこと」「奇跡」「よく分からないけどとにかく良かったね」
などと言うだけで、深追いはしません。
この思考の停止感は凄いです。
この当時、私はまだ整体を全くやっていませんでしたが、
このときの驚きが今でも施術へのモチベーションのベースになっています。
そして、一方で、実際にこのようなことが起きているのに、
全く研究しようとしない世の中の態度にも驚きました。
そんなに科学って発達しているのか?
説明できないもの=オカルト=おかしい
と決めつけることは多いですが、今の科学で説明できるもの以外は、
全て切り捨ててもいいくらい科学は進んでいるのでしょうか?
そんなことは全くないはずです。
相対的には100年、200年前より、
我々は多くのことを知り、制御することが出来るようになりましたが、
大いなる地球や天体、生命の不思議に比べたら、爪の先ほどの、本当に目先の現象しか分かっていないのではないかと私は思います。
こんな小さな知識フィールドの中で全てを知り得たと勘違いし、
少量の知識をああでもない、こうでもないとひっくり返したり、組み合わせたりしているのだけなのです。
こんな身近な、腰痛が首で治るという「事実」を「たまたま起こった奇跡」
扱いして、相変わらず大して効かない薬や電気治療ばっかり続けていていいのだろうか?
誰もやらないなら、とりあえず自分が、無力でもいいからやってみよう。
沢山の人の役に立つはずだ。
こう思ったのが原点です。
そこから自分で習いに行ったり、研究を始めて、
実験的に集めていた患者さんが徐々に増え、
10年かけて徐々に教員の仕事の割合と、
整体師の仕事の割合が逆転していったのです。
今回の整体師のとしての原点に近いお話から、体は繋がっているのだ、ということを少しでも実感して頂けたらと思います。