受験の思い出 2 補習科

受験について書いていたら色々思い出してきたのでもう少し書いてみます。

前回浪人したと書きましたが、浪人時代は卒業した高校に通って勉強しました。

予備校には行っていません。

同じ高校に制服を着て通い、教えてくれるのは高校の先生です。

いわば高校四年生です。

この、高校が浪人中の卒業生の面倒を見てくれるシステムは

「補習科」

といって、地方、特に西の方には結構あったのですが全く存在しない地域もあり、
補習科の話をすると少なからず驚かれます。

私の卒業した高校は古い高校でしたので旧制中学時代の明治時代に建てられたハイカラな校舎が残っていました。

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ここの本館と離れに一教室ずつ、理系と文系に分かれて浪人生が入ります。

当時、大手予備校は一通りありましたが、予備校よりは進学率が高くて安い、
ということで人気があり、浪人が決まった卒業生の殆どが補習科に通いました。

私の代は人数が多く、理系文系ともに40人くらい居た記記憶があります。

週に1回体育の授業もあり、ソフトボールかバドミントンかバスケットボールを選べました。

私の高校は各学年で体操服の色が決まっており、私は青色だったのですが、入学してすぐ、校舎のベランダから校庭を見ていると、
やや白く色あせた、ヨレヨレの体操服を着たどう見てもおじさん臭くて新入生には見えない、
しかし新入生と同じ色の体操服を着た一団が実に嬉しそうにソフトボールをしているのを不審に思い、先生に質問して初めて、補習科というものの存在を知りました。

その時は浪人して嬉しそうにしてるのか、だせー、と心底馬鹿にして(笑)、
あんな惨めな立場にはなりたくない、というか、なるわけがない、と自信満々だったのですが、3年後、ベランダからの現役生達の冷たい目線などもろともせずに、ソフトボールを楽しんだのでした。
週に一度のソフトボールは実に楽しかった。

普通の授業だと、キャッチボールの練習とか色々カリキュラムがあり、試合はなかなかさせて貰えなかったのですが、毎回試合ですから。

高校は隣の市にあり、毎日小一時間、ドロップハンドルの自転車を全力で漕いで通っていたのですが、体力の温存と時間節約のために原付で通い始めて(本当は禁止)、一気に太りました。
一日10時間以上座りっぱなしで、原付で通っていたのですからこれは仕方ない。

今は63キロくらいで、高校時代より5キロくらい重いのですが、大体この体重をこの何十年もキープしています。

しかし、浪人時代はマックス85キロくらい行きました。もう少しで90キロ、というところまで行きました。

補習科は制服で通うことが義務ずけられており、一年間のことですから、皆そのまま制服を買い直すことなく通うわけです。

私もそうしていたのですが、一気に30キロ近く太ったせいでボタンが留められなくなり、授業中は一番上のボタンだけして、下は全部外し、トイレに行くときや、職員室に用のある時だけ全部のボタンを留めていましたが、最後はこれもほぼ不可能となり、くしゃみをした瞬間に五つあるボタンのうち、四つの留め金が割れてボタンが飛び散ったことがあります。

この時点で残り浪人生活二ヶ月。
今更制服を買い直すこともできないですし、当時はヤフオクみたいなものもなかったので、中古も入手できず、先生に事情を話して前をはだけて生活をしていました。

当時は腰のラインを絞った制服が格好良いとされ、制服の規定が緩かったこともあり、カラー(襟)が普通より1センチほど高く、腹部が絞られ、裾が普通より5センチほど長い「中ラン」なる学ランを着ていたのですが、腰の絞りと、カラーの高さには浪人時代本当に泣かされました。

入学時に戻れるなら、腹回りに余裕があり、カラーの低い学ランを買いますね。

この頃、体調を崩し、これが後に整体を受けるきっかけともなるのですが、それはまた書きます。






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